二人のいじめられっ子、どの子とドの子の違いは。
2025年10月11日から12月20日まで、日本テレビ系土曜ドラマ。
主演は間宮祥太郎と新木優子。
同窓会で集まった小学校の同級生の不審死を契機に描かれる考察ミステリードラマ。
このドラマは、ただのサスペンス劇場でも、学園ドラマでも、感動ドラマでもなかった。
今もこの社会に存在し続ける「いじめ」を真正面から描いた、とても社会性の高いドラマだと、私は思った。
小中高の子供達、親、教育者など、子供に関わるすべての人達にも観て、考えて欲しい。
途中から、なんとなくだが、宇都見(木村昇)刑事が犯人ではと思ったが、理由が自分でも良く分からず、多分殺し方が慣れていると言うか、あまりにも静かで残虐なのでプロっぽいな、と感じたからかも、、、。
犯人のことはさて置き、二人のいじめられっ子の視点で、私なりの感じた事を綴りたいと思います。
●いじめられっ子その1.猿橋園子=どの子(被害者)
6年生の途中から鷹取小学校に来た転校生
クラスメイトの軽いからかいが徐々にエスカレートし、いじめに発展
その中で生まれたのが、あだな「どの子」
「中にいるのはどーの子だ?」と体育倉庫の前で囃し立てるキング(のち間宮祥太朗)達のシーンは何度もストーリの中に出てくる
瀬戸紫苑の事は知らない
小学生時代:鈴木礼彩(すずきれいあ)
大人時代:新木優子(あらきゆうこ)
●いじめられっ子その2.瀬戸紫苑=ドの子(真の被害者)
5年生の時、瀬戸紫苑がリコーダーのテストをしているとき、キング達が目の前でふざけており、それに動揺した瀬戸紫苑は”ド”の音が出せなかった。
これがきっかけで、いじめが始まり不登校となり転校した。
小学生時代:吉田帆乃華(よしだほのか)
大人時代:大後寿々花(おおごすずか)
このドラマが問いかける「良い子」「悪い子」という境界線
このドラマは最初から問いかけてくる。
良い子とは誰なのか。
空気に合わせる子が良い子?
声の大きい子が良い子?
多数派にいる子が良い子?
子どもはまだまだ未熟な人間だ。
未熟なくせに歪んだ賢さを持つ子供は、簡単に大人を欺く。
それに気づかない大人も、また未熟な人間。
見て見ぬふりをする先生だっているんだから。
殺された先生のように。
ドラマの中でも、ピアノの工作物を壊したり、教室からランドセルを廊下に投げつけたり、、、こんな単純でわかりやすいいじめは多数の子供達が目撃しているはず。
自分たちに害が加わらないように、自分がいじめのターゲットにならないように、自分を守るために見て見ぬふり。
先生だって見て見ぬふり。
未熟な人間が、未熟な子供達を教育するのだから、立派な人間に育つわけがない。
だから社会にでても、大人のいじめはなくならない。
誰だって完璧ではない。
だけど、人を思いやる気持ちは持てるはず。
人間なんだから。
「こんな事をしたら、こんな事を言ったら、相手が傷つくだろう」。
「もしやってしまったら、もし言ってしまったら、悪いことしたかも、謝ろう」。
こんな単純な思考は、保育園や幼稚園や家庭でも学ぶはず。
だけど、少なからず、これらの単純な思考がいつのまにか出来なくなってしまう。
自分を強く見せたいためか、ストレス解消のため弱めな子をターゲットにするのか、
あるいは、家庭環境が悪いためか、、、。
もっと学校が楽しい場所であれば、人をいじることを考える隙も無い程楽しい場所で温かい場所なら、こんな「いじめ」なんか起きないのでは、とも思ってしまう。
いろんな誘因があるかもしれない。
だから、いじめは、特別な悪意を持った人だけが起こすものでもなく、いつのまにか、私達は誰かを「悪い子」に追いやっている可能性がある。
日常の中で、簡単に起きてしまういじめ。
大人も子供も。
このドラマは、その怖さを突き付けてくる。
猿橋園子ー過去と向き合う道をえらんだ、いじめられっ子
彼女は美貌を兼ね備えた編集者となり、言葉と事実を扱う仕事に就く。
そして再び、かつて自分をいじめていた同級生たちと向き合い、事件の犯人を突き止めようとする。
猿橋園子は過去を「なかったこと」にしなかった。
調べ、言葉にし、事実として外に出そうとした。
それは復讐ではなく、自分の人生を取り戻すための行為だった。
しかし、彼女の行動には、「過去を掘り起こすこと」「人を追い詰める可能性」「誰かの平穏を壊す危うさ」も含まれる。
正義の行動と思っていても、必ずしも「きれいな行為」とは限らない。
瀬戸紫苑ー夢を支えに生きた、いじめられっ子
彼女はピアニストになる夢を持ち続け、それを支えに生きてきた。
「強く生きよう」「夢を叶えれば救われる」
そう信じて努力し、ついに夢は叶う。
けれどそれは、過去を乗り越えたという意味ではなかった。
いじめの記憶は、心の奥に押し込められただけだった。
夢が叶っても、過去は終わらなかった
大人になり、紫苑はいじめっ子キング(間宮祥太朗)と再会する。
そのいじめっ子は、かつて自分がいじめた「ドの子」とは、全く気付いていない。
紫苑はその瞬間、忘れたはずの記憶が一気に押し寄せる。
いわば、心のフィードバック。
ピアニストとして成功して、恋人(木村昇)と幸せな日々を送っていた自分。
でも、心はあの頃のまま。
逃げ場を失った紫苑は、再び心を壊し、自ら命を絶ってしまう。
これは、責められることではないけど、「夢があれば救われるとは限らない」「良い子だから救われるとは限らない」という、あまりにも現実的な結末だった。
二人を分けたのは「強さ」ではない
猿橋園子が特別に強かったわけではない。
瀬戸紫苑が弱かったわけではない。
違いはただ一つ
・猿橋園子は、過去を言葉にしようとした
・瀬戸紫苑は、過去を封じた
事実として切り分けるか。
自分を責め続けるか。
その差が、二人の人生を大きく分けた。
いじめは、なくならない。それでも、、、
正直に言えば、いじめはこの先も無くならないだろう。
いじめによる自殺者も、残念ながらゼロにはならないだろう。
でも、どう向き合うかは選べる。
耐えるだけが正解じゃない。
忘れることだけが前進でもない。
このドラマは、「生き延び方は一つじゃない」ことを、教えてくれているように思う。
主題歌「アゲハ蝶」に込められたメッセージ
このドラマと共に、是非聴いて欲しいのが主題歌「アゲハ蝶」だ。
この歌は、強くなれとも、前を向けとも言わない。
羽が破れても、うまく飛べなくても、それでも生きていい。
瀬戸紫苑に、かけてあげたかった言葉が、この歌にはあるように思える。
●「アゲハ蝶」の象徴
・か弱い
・美しいけど壊れやすい
・羽が欠けたら、もう飛べないかもしれない
そんな存在です。
それでも歌は「それでいい。壊れやすいまま、存在していい」と突き放さない。
これは、「良い子でいなければ」「ちゃんとしていなければ」「成功しなければ」
と自分を縛っていた瀬戸紫苑の生き方と、強い対比となる。
しかし、ポルノグラフィティの24年前の曲が今の令和で注目を浴びるのは、当時この歌が大好きだった私にとっても、とても嬉しいことです。
いじめっ子も、いじめられっ子も
今、誰かをいじめてる子、今、誰かにいじめられてる子。
この「アゲハ蝶」を聴いて、ドラマ「良いこと悪いこと」を観て欲しい。
誰かを傷つけた記憶がある人も、傷ついたまま心にしまっている人もだ。
ほんの一瞬でも、胸が痛んだなら。
立ち止まれることが出来たなら。
今からでもやり直せる。
まとめ
ドラマ「良いこと悪いこと」と主題歌「アゲハ蝶」は、いじめを「終わった過去」にしないための作品だと思う。
誰かを責めるためではなく、自分を見つめ直すために。
今、苦しんでいる人も、誰かを傷つけてしまった人にも、是非、観て、聴いて欲しい。
行為は、良いことにも悪いことにもなる。
同じ人間が、
・ある瞬間には誰かを救い
・別の瞬間には誰かを傷つける
それが現実であり、社会である。
あくまでも私見ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

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